第1講 人事権とは何か
第1講 人事権とは何か
――会社はどこまで労働者の働き方を決められるのか

会社が従業員を雇用するとき、単に「労働力を買う」というだけではありません。採用した従業員をどの部署に配置するか、どのような仕事を担当させるか、誰を昇進させるか、誰を管理職にするか、勤務場所を変更するか、場合によっては注意指導・懲戒・退職勧奨・解雇を行うか――こうした一連の判断は、広い意味で「人事権」と呼ばれます。
人事権とは、会社が事業運営のために、労働者の配置、職務、評価、処遇、身分関係などについて決定する権限です。会社は、事業を継続し、組織を維持し、利益を上げ、顧客にサービスを提供するために、人を動かさなければなりません。その意味で、人事権は企業経営に不可欠な権限です。人を採用したのに、配置もできない、評価もできない、異動も命じられない、問題行動があっても処分できないということになれば、会社組織は成り立ちません。
もっとも、人事権は会社の「好き勝手にできる権限」ではありません。ここが非常に重要です。労働者は、会社の一部品ではなく、労働契約に基づいて働く一人の人間です。賃金、勤務地、職務内容、役職、評価、勤務時間、人間関係は、労働者の生活や人生設計に直接影響します。そのため、会社の人事判断には一定の裁量が認められる一方で、労働契約、就業規則、労働基準法、労働契約法、男女雇用機会均等法、育児・介護休業法、障害者雇用促進法、パワハラ防止に関する法令などによる制約があります。
たとえば、会社が配転命令を出す場合でも、労働契約上、職種や勤務地が限定されている場合には、その範囲を超える命令は問題となります。また、形式的には配転であっても、実質的には嫌がらせ、退職に追い込む目的、報復目的で行われた場合には、人事権の濫用と評価される可能性があります。降格や低評価についても、会社に一定の裁量はありますが、合理的な根拠がなく、特定の労働者を狙い撃ちにするような運用であれば、違法・無効とされる余地があります。
人事権を考えるうえで大切なのは、「権限があるか」と「その行使が適法・相当か」を分けて考えることです。会社に配転命令権があるとしても、具体的な配転が常に有効とは限りません。会社に評価権限があるとしても、恣意的な評価が許されるわけではありません。会社に懲戒権があるとしても、就業規則上の根拠、事実認定、処分の相当性、手続の適正さが必要です。
実務上、人事権トラブルで問題になりやすいのは、会社側に一定の理由があったとしても、その理由を記録化できていない場合です。「勤務態度が悪かった」「能力が不足していた」「協調性に問題があった」と会社が考えていても、注意指導の記録、面談記録、評価資料、業務上の必要性を示す資料がなければ、後から説明することが困難になります。人事権は、頭の中で正当化できるだけでは足りません。紛争になったときに、外部の第三者、最終的には裁判所に説明できる形で残しておくことが重要です。
会社側の労働法務において、人事権は中心的なテーマです。採用、配転、出向、転籍、昇進、降格、人事評価、休職、復職、懲戒、退職勧奨、解雇は、すべて人事権の問題としてつながっています。そして、そのすべてに共通する実務上のポイントは、①労働契約や就業規則上の根拠があるか、②業務上の必要性があるか、③労働者に過度な不利益を与えていないか、④差別・報復・嫌がらせ目的がないか、⑤判断過程と理由を記録化しているか、という点です。
人事権は、会社を守るための武器です。しかし、乱暴に使えば、労働紛争を招く火種にもなります。重要なのは、「強く使うこと」ではなく、「説明できる形で、適切に使うこと」です。会社が人事権を適法に行使するためには、日頃から就業規則を整備し、評価基準を明確にし、注意指導や面談の記録を残し、労働者とのコミュニケーションを積み重ねておく必要があります。
人事権とは、会社が人を動かす力です。しかし同時に、その力をどう制御するかが、会社の労務管理の質を決めます。人事権を理解することは、会社が「人を使うリスク」を理解することでもあります。第2講以降では、採用、配転、出向・転籍、降格、人事評価、休職、懲戒、退職勧奨・解雇といった各場面ごとに、会社がどこまで判断でき、どこからが人事権濫用となるのかを具体的に整理していきます。