第10講 人事権濫用を防ぐ実務
第10講 人事権濫用を防ぐ実務
――会社の人事判断を「説明できる形」に整える

人事権は、会社が組織を運営するために不可欠な権限です。採用し、配置し、評価し、昇進させ、降格し、休職を命じ、復職を判断し、懲戒し、場合によっては退職勧奨や解雇を検討する。これらの判断ができなければ、会社は事業を継続できません。会社は人を使って事業を行う以上、人を動かす権限を持つ必要があります。
しかし、人事権は万能ではありません。会社に人事権があるとしても、その行使が常に適法になるわけではありません。配転命令権があるとしても、嫌がらせ目的の配転は問題になります。評価権限があるとしても、報復的な低評価は許されません。懲戒権があるとしても、根拠や手続を欠く処分は無効となり得ます。解雇権があるとしても、客観的合理的理由と社会通念上の相当性を欠けば、労働契約法16条により無効となります。
つまり、人事権の実務で重要なのは、「会社に権限があるか」だけではありません。「その権限を、どのような理由で、どのような手続で、どの程度の不利益を伴う形で行使したのか」が問われます。会社の内部では当然だと思っていた判断でも、外部から見ると、理由が分からない、記録がない、説明が足りない、不公平に見える、ということがあります。
人事権濫用を防ぐための第一歩は、就業規則と雇用契約書の整備です。会社が配転、出向、休職、懲戒、服務規律、退職、解雇などを行うには、その根拠となる規定が必要です。就業規則に何も書かれていない、あるいは古いひな形のままで現実の運用と合っていない場合、会社側の人事判断は不安定になります。
たとえば、就業規則に「業務上の必要により配置転換、職種変更、転勤、出向を命じることがある」といった規定があるか。休職期間、復職手続、診断書提出義務、休職期間満了時の扱いが明確になっているか。懲戒事由と懲戒処分の種類が定められているか。服務規律にハラスメント、情報漏えい、SNS利用、秘密保持、副業・兼業など現代的なリスクが反映されているか。こうした確認が必要です。
もっとも、規定を置けばよいというものでもありません。就業規則の規定と実際の運用が食い違っていれば、かえって問題になります。たとえば、評価制度があると書いているのに評価面談をしていない。休職中は診断書を提出すると書いているのに提出を求めていない。懲戒手続として弁明の機会を与えると書いているのに、実際には本人から話を聞いていない。こうした場合、会社は自ら定めたルールを守っていないことになります。
第二に重要なのは、労働契約の内容を明確にすることです。特に、職種限定、勤務地限定、勤務時間限定、雇用期間、試用期間、賃金体系、固定残業代、役職、職務内容などは、後の人事権行使に大きく影響します。採用時に曖昧な説明をしていると、後で配転、職種変更、転勤、降格、試用期間満了時の本採用拒否などを行う場面で争いになりやすくなります。
会社側が「正社員だから当然に何でも命じられる」と思っていても、求人票や面接時の説明、雇用契約書の記載、過去の運用から、実際には勤務地や職種が限定されていると評価されることがあります。特に中小企業では、「地元採用だから当然転勤なし」「事務職で採用したから現場作業は想定していない」といった暗黙の前提が生じやすいです。暗黙の前提は、紛争になると厄介です。会社としては、労働条件をできるだけ明文化しておく必要があります。
第三に、人事判断の理由を記録化することです。人事権トラブルの多くは、「理由がない」からではなく、「理由を後から説明できない」ことから生じます。会社の中では、あの人は問題が多かった、あの部署は人員不足だった、あの配転には必要性があった、と分かっているつもりでも、記録がなければ外部には伝わりません。
配転であれば、なぜその部署に人員が必要だったのか、なぜその従業員を選んだのか、本人にどのような説明をしたのか、本人からどのような事情を聞いたのかを記録します。降格であれば、どのような業務上の問題があったのか、いつどのような指導をしたのか、改善の機会を与えたのか、役職を外す必要性は何かを記録します。退職勧奨や解雇であれば、評価資料、注意指導記録、面談記録、改善指示、業務上の支障を残しておく必要があります。
第四に、注意指導を段階的に行うことです。問題社員対応で会社側が失敗しやすいのは、長い間不満をため込み、ある日突然、降格、退職勧奨、解雇に飛ぶパターンです。会社内部では「もう何年も困っていた」という感覚でも、本人に正式な注意指導をしていなければ、外部からは突然の不利益措置に見えます。
問題がある場合には、まず具体的に指摘することが大切です。「勤務態度が悪い」ではなく、「期限までに報告書が提出されていない」「顧客から同種の苦情が複数回出ている」「上司の業務指示に対する返答がなく、業務が止まっている」など、事実に即して伝えます。そのうえで、何を、いつまでに、どの程度改善してほしいのかを示します。
注意指導は、単に叱ることではありません。会社の期待を伝え、改善の機会を与える手続です。改善の機会を与えたにもかかわらず改善しない場合には、会社側の次の人事判断を支える資料になります。反対に、注意指導をしていないのに、突然「改善しないから解雇」と言っても、説得力を持ちにくくなります。
第五に、面談記録を残すことです。面談は、労務管理の現場では頻繁に行われます。評価面談、注意指導、休職前面談、復職面談、退職勧奨面談、ハラスメント聴取、配置転換の説明などです。しかし、面談をしただけで記録がなければ、後から「言った」「言っていない」の争いになります。
面談記録は、長大な議事録である必要はありません。日時、場所、出席者、会社から説明した内容、本人の発言、今後の対応を簡潔に残すだけでも意味があります。特に重要な面談では、面談後に確認書面やメールで要点を共有しておくことも有効です。人事権の実務では、記録の薄さがそのまま会社側の弱さになります。
第六に、労働者側の事情を確認することです。会社に業務上の必要性があるとしても、労働者側に重大な不利益がある場合には、人事権濫用が問題になり得ます。配転であれば、育児、介護、病気、障害、通勤可能性、家庭事情が問題になります。休職・復職であれば、病状、主治医の意見、産業医の意見、配置可能業務が問題になります。退職勧奨や解雇であれば、これまでの勤務状況や改善可能性も見なければなりません。
会社側が最初から結論ありきで進めると、労働者の事情を聞いていないこと自体が不利に評価されることがあります。もちろん、労働者が事情を述べれば必ず会社が譲らなければならないわけではありません。しかし、事情を聞いたうえで検討したのか、何らかの配慮が可能かを考えたのかは重要です。聞かない会社は、荒く見えます。聞いたうえで判断した会社は、少なくとも手続としては丁寧に見えます。
第七に、不当な動機・目的を疑われないようにすることです。人事権濫用が問題となる場面では、会社の本音が疑われます。残業代請求をした直後の配転、内部通報をした直後の低評価、ハラスメント相談をした後の降格、育児休業取得後の昇進見送り、労働組合活動後の不利益配置などは、報復的措置と疑われやすいです。
会社側に本当に業務上の理由があったとしても、時期や経緯が悪ければ疑われます。そのため、こうした場面では特に慎重な記録化が必要です。なぜその人事措置が必要だったのか。他の候補者との比較はどうか。以前から検討していたのか。対象者選定の基準は何か。本人の申告や活動と関係がないと説明できるか。ここを整理しないまま人事措置を行うと、会社側の真意をめぐる紛争になります。
第八に、公平性・均衡を意識することです。同じような問題行動をした従業員のうち、ある人は注意で済ませ、ある人だけ重い懲戒処分にする場合、その違いを説明できる必要があります。人事評価でも、似たような実績の従業員に大きな評価差をつける場合には、基準が必要です。降格や退職勧奨でも、なぜその人が対象になったのかを説明できなければなりません。
もちろん、完全な平等は現実的ではありません。役職、職責、過去の指導歴、反省の有無、被害の大きさ、再発可能性などによって、処遇が異なることはあります。しかし、その違いを説明できるかが重要です。会社の人事判断は、他の従業員との比較の中で見られることがあります。個別判断であると同時に、組織全体の整合性も問われます。
第九に、感情と言葉を管理することです。労務トラブルでは、会社側の不用意な発言が大きな証拠になります。退職勧奨の面談で「もう居場所はない」と言う。配転説明で「嫌なら辞めてもらう」と言う。評価面談で「君は使えない」と言う。休職者に「いつまで迷惑をかけるのか」と言う。こうした言葉は、録音されれば非常に強い証拠になります。
会社側の実務では、録音されても困らない言葉で話すことが基本です。これはきれいごとではなく、現代労務の防衛線です。感情的な言葉、人格否定、脅し、皮肉、見せしめ的な発言は避けるべきです。伝えるべきなのは、人格評価ではなく、業務上の事実、会社の判断、今後の対応です。
第十に、解雇を最後の手段として位置づけることです。会社にとって問題のある従業員がいる場合、すぐに「辞めさせたい」と考えたくなることがあります。しかし、解雇は最もリスクの高い人事権行使です。客観的合理的理由と社会通念上の相当性が必要であり、無効となれば、雇用関係が続いていたものとして賃金支払義務が問題になります。
解雇を検討する前に、注意指導、配置転換、業務内容の変更、評価への反映、懲戒処分、退職勧奨など、他の選択肢を検討する必要があります。もちろん、重大な非違行為や明らかな労務提供不能など、解雇を検討せざるを得ない場面はあります。しかし、その場合でも、解雇に至るまでの経緯と資料を整えておくことが不可欠です。
人事権濫用を防ぐ実務を一言でいえば、「説明できる人事」にすることです。会社の中だけで通じる感覚ではなく、第三者に説明できる形にする。裁判所、労働局、弁護士、労働者本人、場合によっては他の従業員に対しても、なぜその判断をしたのかを説明できるようにする。これが、会社側労働法務の基本です。
そのためには、次の5つを常に意識する必要があります。第一に、根拠です。就業規則、雇用契約書、労働条件通知書、社内規程に根拠があるか。第二に、理由です。業務上の必要性や問題行動の内容を具体的に説明できるか。第三に、手続です。本人への説明、事情聴取、弁明機会、面談、検討過程があるか。第四に、配慮です。労働者側の不利益や事情を確認し、必要な配慮を検討したか。第五に、記録です。後から見ても判断過程が分かる資料が残っているか。
この5つがそろっていれば、人事権行使はかなり安定します。逆に、どれかが欠けると、会社側の判断は弱くなります。根拠はあるが理由がない。理由はあるが記録がない。記録はあるが本人に説明していない。説明はしたが不利益への配慮がない。こうした穴が、紛争時に攻められます。
中小企業では、人事制度を完璧に作ることは難しいかもしれません。大企業のような精密な評価制度や人事部門を持たない会社も多いです。しかし、だからこそ、最低限の実務が重要になります。雇用契約書を整える。就業規則を現実に合わせる。注意指導を記録する。面談メモを残す。評価理由を簡単に書く。退職勧奨や解雇の前には資料を整理する。これだけでも、労務リスクは大きく変わります。
人事権は、会社の経営判断そのものです。会社がどのような人材を必要とし、どのような働き方を求め、どのような行動を評価し、どのような行為を許さないのか。それを形にするのが人事権です。しかし、その人事権が場当たり的に行使されると、従業員の不信感を生み、紛争を招き、会社自身を傷つけます。
人事権を強く使う会社が、必ずしも強い会社ではありません。本当に強い会社は、人事権を説明できる会社です。配転する理由を説明できる。評価の根拠を説明できる。懲戒の手続を説明できる。退職勧奨の経緯を説明できる。解雇に至るまでの過程を説明できる。そのような会社は、紛争になっても崩れにくいです。
結局のところ、人事権濫用を防ぐ最大のポイントは、「会社の都合」を「法的に説明可能な理由」に変換することです。人が足りないから異動させたい。期待外れだから降格したい。問題行動があるから処分したい。辞めてほしい。こうした会社の都合を、そのままぶつけるのではなく、労働契約、就業規則、業務上の必要性、本人の事情、手続、記録という形に整える必要があります。
人事権は、会社を守る武器です。しかし、雑に扱えば、会社に跳ね返る刃にもなります。採用、配転、出向・転籍、昇進・降格、人事評価、休職・復職、懲戒、退職勧奨・解雇。どの場面でも共通するのは、根拠を確認し、理由を整理し、本人に説明し、必要な配慮をし、記録を残すことです。
これが、人事権10講の最後に置くべき実務の結論です。会社は、人を動かすことができます。しかし、人を動かすには、理由が要ります。人の地位や処遇を変えるには、手続が要ります。そして、後からその判断を守るには、記録が要ります。人事権を適法に、かつ実効的に使うためには、「説明できる人事」を会社の日常業務にしていくことが何より重要です。