第8講 カスタマーハラスメント対策――「お客様だから仕方ない」で従業員を差し出さない

第8講 カスタマーハラスメント対策

――「お客様だから仕方ない」で従業員を差し出さない

労働施策総合推進法をめぐる企業実務で、今後ますます重要になるのが、カスタマーハラスメント対策です。従来、ハラスメント対策というと、上司・部下、同僚間など、社内の人間関係を中心に考えられてきました。しかし、現実の職場では、顧客、取引先、利用者、患者、保護者、入居者、来店客など、社外の相手からの暴言、威圧、過度な要求、長時間拘束、執拗なクレームによって、従業員の就業環境が大きく害されることがあります。

令和7年6月11日に公布された改正法により、カスタマーハラスメントや求職者等に対するセクシュアルハラスメントの防止措置が事業主の義務となり、令和8年10月1日から施行されます。また、令和8年2月26日には、カスタマーハラスメント防止指針及び求職者等セクシュアルハラスメント防止指針も公布されています。つまり、カスハラ対策は、単なる「できれば望ましい対応」から、企業が整備すべき雇用管理上の課題へと明確に移行しています。

カスタマーハラスメントでまず押さえるべきなのは、正当なクレームと不当な要求を区別することです。顧客からの苦情や改善要望がすべてハラスメントになるわけではありません。商品やサービスに不備があった場合、会社は誠実に対応する必要があります。問題は、要求の内容が不当である場合、または要求内容自体に一定の理由があっても、手段・態様が社会通念上相当な範囲を超える場合です。たとえば、土下座の要求、人格否定、長時間の拘束、執拗な電話、威迫、暴言、SNSへの晒し示唆、担当者への私的接触などは、従業員の就業環境を害する典型的な危険場面です。

企業側に必要なのは、「顧客対応だから従業員が我慢する」という発想から離れることです。たしかに、接客業、医療・介護、学校、行政関連業務、サービス業などでは、一定の苦情対応は業務の一部です。しかし、従業員の人格や安全を犠牲にしてまで、無制限に対応させる必要はありません。会社は、顧客満足と従業員保護を対立するものとしてではなく、両方を維持するための対応基準を持つ必要があります。

まず整備すべきなのは、会社としての基本方針です。カスタマーハラスメントを許容しないこと、正当な苦情には誠実に対応する一方、不当・過剰な要求には組織として対応すること、従業員を一人で抱え込ませないことを明確にします。この方針は、社内規程、対応マニュアル、従業員研修、店舗・事業所内の掲示、ホームページ等を通じて示すことが考えられます。会社の方針が曖昧だと、現場は「どこまで我慢すればよいのか」が分からず、限界まで抱え込むことになります。

次に、対応マニュアルの整備が重要です。暴言があった場合、長時間拘束された場合、録音・撮影をされた場合、土下座や過大な金銭要求があった場合、担当者への執拗な指名があった場合、SNS投稿をちらつかされた場合など、場面ごとの対応基準を決めておく必要があります。たとえば、一定時間を超える電話は上席に交代する、面談は複数名で対応する、暴言が続く場合は対応を終了する、脅迫的言動があれば警察や弁護士に相談する、といった基準です。現場に「空気で判断せよ」と投げるのは、ほぼ丸腰で火口に立たせるようなものです。

記録化も不可欠です。カスハラ対応では、後になって「会社の対応が悪かった」「従業員が失礼だった」と主張されることがあります。そのため、日時、相手方、要求内容、発言内容、対応者、同席者、対応時間、録音・メール・チャット・防犯カメラ等の有無を記録しておくことが重要です。特に、繰り返しの電話、長時間拘束、過大要求、威迫的言動がある場合には、記録が会社の防御資料になります。記録があれば、対応打切り、担当者変更、弁護士対応、警察相談などに移行する判断もしやすくなります。

従業員への配慮も、カスハラ対策の中心です。深刻なクレーム対応を一人に任せ続けると、精神的負担が大きくなります。対応者の交代、複数名対応、休憩、上司によるフォロー、産業医・外部相談窓口への接続、配置やシフトの調整などを検討すべき場面があります。また、「あなたの対応が悪かったからではない」と会社が明確に伝えることも大切です。従業員が、自分の落ち度として抱え込むと、メンタル不調や離職につながります。

一方で、会社は顧客対応をすべて拒絶すればよいわけではありません。商品・サービスに問題がある場合、説明不足がある場合、従業員側の対応に改善点がある場合には、会社として誠実に対応しなければなりません。カスハラ対策は、顧客の正当な苦情を封じる制度ではありません。正当な苦情には丁寧に対応し、不当・過剰な要求には毅然と対応する。この線引きを会社として整えることが重要です。

中小企業では、カスハラ対応を属人的に処理しがちです。社長、店長、ベテラン従業員が、その場の経験で何とかしている会社も多いでしょう。しかし、対応が担当者任せになると、従業員ごとに対応がばらつき、相手方に付け込まれたり、従業員が孤立したりします。最低限、相談・報告ルート、対応打切り基準、記録様式、上席交代基準、警察・弁護士への接続基準を作っておくべきです。これは大企業だけの話ではありません。

また、取引先や顧客との関係では、営業上の遠慮から対応が遅れることがあります。「大事な取引先だから」「地域の有力者だから」「口コミが怖いから」といって、従業員を過度な暴言や要求に晒し続けると、会社の安全配慮義務や職場環境配慮の問題になります。会社にとって本当に大切なのは、理不尽な相手を神棚に上げることではなく、従業員が安心して働ける土台を守ることです。お客様は神様です、という言葉を会社が雑に使うと、現場の従業員が供物になります。

カスタマーハラスメント対策は、企業イメージの問題でもあります。従業員を守る会社であることを示せれば、採用、定着、職場の士気にも良い影響があります。逆に、理不尽なクレームに対して会社が従業員を守らない場合、「この会社は現場を見捨てる」という空気が広がります。これは、離職や人材不足が深刻な業種では特に大きな問題です。

労働施策総合推進法の改正により、カスハラ対策は、いよいよ企業の実務課題として正面から扱うべき段階に入りました。会社は、正当な苦情対応と不当な要求対応を区別し、方針を定め、マニュアルを整備し、従業員を一人で抱え込ませず、記録を残し、必要に応じて対応を打ち切る基準を持つ必要があります。

カスタマーハラスメント対策の本質は、顧客と戦うことではありません。正当な顧客対応を維持しながら、従業員の人格、安全、就業環境を守ることです。「お客様だから仕方ない」で済ませる時代は終わりつつあります。会社が従業員を守る線を引けるかどうかが、これからの労務管理の重要な分岐点になります。

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