第30講 遺産分割で揉めやすい論点|評価時点・使込み・感情対立の実務
第30講
遺産分割で揉めやすい論点|評価時点・使込み・感情対立の実務

ここまで見てきた制度を実務でまとめてみると、遺産分割がこじれる原因は、結局それほど多くありません。典型的には、何を遺産に入れるのかが争われる場面、その遺産をいくらで評価するのかが争われる場面、そして法律論の外側にある感情対立が手続全体を押しつぶす場面です。家庭裁判所の案内も、遺産分割の主眼は「今ある遺産をどのように分けるか」にあり、相続人同士の感情的対立の調整は補助的なものにすぎないと説明しています。つまり、相続が長引くのは、単に仲が悪いからではなく、感情の問題が、遺産の範囲・評価・分割方法という法的争点に乗って増幅されるからです。
まず第一に揉めやすいのが、評価時点です。遺産分割では、各相続人がどれだけの遺産を取得できるかを計算するために、個々の遺産を金額評価しなければなりません。そして岡山家庭裁判所の説明では、その評価は、原則として**遺産分割を実行する時点、いわゆる「分割時」**の金額によるとされています。つまり、「亡くなったときにはこの価格だった」という感覚で止まるのではなく、実際に分ける時点でいくらかが問題になります。この一点だけでも、相続開始から年数がたった案件では、当事者の感覚と法的整理がずれやすくなります。
この評価時点の問題は、とりわけ不動産で深刻です。仙台家庭裁判所は、不動産評価の方法として、不動産鑑定、固定資産税評価額、相続税評価額、公示地価等を基礎にする方法などを挙げたうえで、調停では当事者全員が合意した評価方法に基づいて処理すると説明しています。岡山家庭裁判所も、鑑定評価額以外は相続人全員の合意がある場合に限り採用されるとしています。つまり、「固定資産税評価額で十分だ」と考える相続人と、「時価に近い鑑定で見るべきだ」と考える相続人がぶつかると、分け方以前に評価方法の段階で止まるのです。実務で不動産が揉めるのは、不動産そのものが分けにくいだけでなく、評価の物差しまで一つではないからです。
第二に揉めやすいのが、使込み・使途不明金です。家庭裁判所は一貫して、遺産分割の対象は基本的に現存する遺産だと説明しています。大阪家庭裁判所も、分割対象となる遺産は現存している遺産に限定され、滅失した建物等、現存しないものは対象にならないとしています。京都家庭裁判所も、遺産分割は現存する遺産を具体的に分ける手続だと明示しています。したがって、「本当はもっと預金があったはずだ」という不満があっても、そのお金がすでに口座から消えているなら、当然には遺産分割の表に戻ってこないのです。
この点で、多くの当事者が混乱します。使途不明金があると、感覚的には「遺産を隠された」「だからその分を分割計算に戻してほしい」と考えます。しかし法務省の改正資料でも、相続開始前後の一部の相続人による無断払戻しについて、当事者間に合意ができない場合には「使途不明金」として民事訴訟で解決する考え方が示されています。つまり、遺産分割手続は万能ではなく、現存遺産の分け方と、消えてしまった金銭の返還問題とは、法的には別筋になりやすいのです。前講までで見た特別受益や死後処分の特則が絡むこともありますが、少なくとも出発点としては、「使込みがあるなら遺産分割ですべて解決できる」とは考えない方が安全です。
さらに厄介なのは、使込みを主張する側が証拠を持っていないことが多い点です。大阪家庭裁判所は、裁判所が遺産を探してくれるわけではなく、当事者自身が必要資料を集めなければならないとし、言い分と食い違う点を主張するには客観的な裏付け証拠が必要で、資料がなければ最終的に取り上げられないこともあると案内しています。つまり、「きっと抜いたに違いない」という疑いだけでは前に進まず、通帳、取引履歴、送金記録、領収書、管理状況の記録といった具体的資料がないと、法的争点として成立しにくいのです。相続で使途不明金が長引くのは、怒りが強いわりに、証拠が弱いことが多いからです。
第三に、そして実務では一番重いのが、感情対立そのものです。京都家庭裁判所は、調停を円滑に進めるにはお互いの譲り合いが必要不可欠であり、感情的対立の調整はあくまで補助的なものだと説明しています。大阪家庭裁判所も、感情的な言い争いは控え、前向きな気持ちで遺産をどう分けるかを話し合う必要があるとしています。つまり、裁判所は感情が存在すること自体は前提にしていますが、それを主戦場にはしていません。ところが当事者にとっては、相続は財産分けというより、長年の親子関係・兄弟関係の精算であることが多く、そのズレが調停を難しくします。
しかも、感情対立は単独で存在するのではなく、評価や使途不明金の論点に乗って現れます。たとえば、「兄ばかり生前に優遇されていた」という感情は特別受益の主張に化け、「私だけ介護したのに」という感情は寄与分や特別寄与料の主張に化け、「同居していた者が預金を握っていた」という不信は使途不明金論に化けます。仙台家庭裁判所も、遺産の範囲や評価が定まった後に、特別受益や寄与分について聴くと整理しており、これらは本体の争点が固まった後に乗ってくる調整論点だと分かります。つまり、相続の感情対立は、法律の外にあるようでいて、実務では必ず法律論の形を取って現れます。
ここでさらに注意したいのは、時間がたつほど不利になる論点があることです。仙台家庭裁判所のQ&Aは、令和10年4月1日以降は、相続開始から10年を経過した後に申し立てた調停では、特別受益と寄与分の制度が適用されなくなると案内しています。現在は2026年3月29日ですから、このルールの実際の運用が前面に出てくるのは2028年4月1日以降ですが、長期間放置された相続では、単に人間関係が悪化するだけでなく、主張できる制度自体の射程が変わることがあります。相続を放置すると面倒になる、というのは感覚論ではなく、制度上も現実の問題です。
結局のところ、遺産分割で揉めやすい論点は、ばらばらに見えても一つの流れでつながっています。まず、今ある遺産が何かで争い、次に、それをいくらでみるかで争い、そのうえで、生前の援助や介護、使途不明金、感情的なしこりが上乗せされていきます。裁判所が求めているのは、感情の強さではなく、現存遺産、評価資料、客観的証拠です。だからこそ、相続実務で大切なのは、早い段階で争点を「遺産の範囲」「評価」「調整論点」に分けて整理し、感情そのものを直接ぶつけるのではなく、資料に落とし込める形に変えることです。
第31講では、ここから遺留分の章に入り、遺留分とは何か|遺言があっても最低限守られる取り分を扱います。遺産分割の論点とは別に、遺言がある場面でなお残る最低保障の問題に進みます。