第5講  敷金返還請求|明渡し、原状回復、未払賃料控除はどう組み立てるか

第5講
敷金返還請求|明渡し、原状回復、未払賃料控除はどう組み立てるか

敷金返還請求は、賃貸借の紛争の中でも、当事者の感覚と法的な構造がずれやすい分野です。退去した賃借人の側から見ると、「部屋を出たのだから預けた金を返してほしい」という話に見えます。しかし、訴訟実務では、それだけでは足りません。民法622条の2は、敷金を、名目を問わず、賃料債務その他の賃貸借に基づいて生ずる賃借人の金銭債務を担保する目的で交付された金銭として整理し、返還は、賃貸借が終了し、かつ、賃貸物の返還を受けたときに、未払債務を控除した残額について生じるという形で定めています。したがって、敷金返還請求は、「敷金を差し入れた」という一点ではなく、契約終了、目的物返還、控除対象の有無と範囲を順番に積み上げていく事件です。

要件事実的にみると、賃借人側が敷金返還請求を立てるための骨格は、まず、賃貸借契約が存在したこと、敷金を差し入れたこと、賃貸借が終了したこと、賃貸物を返還したことです。ここで重要なのは、賃貸借が終了しただけでは足りず、返還まで必要だという点です。条文上も、賃貸人の返還義務は、賃貸借の終了と賃貸物の返還がそろった段階で問題になります。したがって、実務では、解約日や契約終了日だけでなく、実際の退去日、鍵の返却、明渡確認書、立会記録、管理会社とのやり取りなど、返還完了を基礎づける資料が重要になります。ここが曖昧だと、賃借人側の請求は思った以上に不安定になります。

もっとも、賃借人側がここまで主張立証しても、直ちに敷金全額が返るとは限りません。民法622条の2は、賃貸人に、未払賃料、損害賠償金、原状回復費用等の未払債務を控除した残額のみを返還すれば足りるという構造を採っています。法務省の説明資料も、敷金は、賃貸借終了時に賃借人が負う未払債務を控除した残額を返す制度であると整理しています。ですから、訴訟では、賃借人側の請求原因に対し、賃貸人側が「未払賃料がある」「原状回復費用が発生している」「別途損害がある」という形で控除を主張するのが典型です。敷金返還請求は、形式上は原告である賃借人からの金銭請求ですが、実質的には、賃貸人がどこまで控除できるかが主戦場になることが多いのです。

このとき特に争点になりやすいのが、原状回復費用です。民法621条は、賃借人について、賃借物を受け取った後に生じた損傷がある場合に、賃貸借終了時にその損傷を原状に復する義務を定める一方で、通常の使用及び収益によって生じた損耗経年変化はその対象から除いています。また、その損傷が賃借人の責めに帰することができない事由による場合も、原状回復義務の対象外です。つまり、法は、退去時に賃借人が「入居当時の完全な状態」に戻す義務を負うとはしていません。ここを誤って、「古くなった分も全部借主負担」と感覚的に処理すると、条文の構造から外れてしまいます。

国土交通省のガイドラインも、この点をかなり明確に整理しています。同省は、原状回復を、賃借人の居住・使用により生じた建物価値の減少のうち、故意・過失、善管注意義務違反、その他通常の使用を超える使用による損耗・毀損を復旧することと説明し、いわゆる経年変化や通常損耗の修繕費は賃料に含まれるという考え方を示しています。さらに、賃借人負担を考えるとしても、経過年数を考慮し、必要最小限の施工単位を基本とするという整理が示されています。ガイドライン自体は法令そのものではありませんが、退去時の費用負担をめぐる一般的な考え方として、実務上きわめて参照されやすい資料です。

したがって、賃貸人側が原状回復費用を控除するという場合でも、単に見積書を出して「これだけかかった」と言えば足りるわけではありません。問題になるのは、どの損傷が、通常損耗や経年変化を超えるものなのか、そしてその損傷が賃借人の故意・過失や管理不十分に由来するのかという点です。クロスの色あせ、家具設置に伴う通常のへこみ、日照や時間経過による劣化のようなものは、直ちに賃借人負担とはなりません。他方で、通常の使用を超える汚損・破損、放置による拡大損害、明らかな不適切使用による毀損などであれば、賃借人負担が問題になります。結局、原状回復費用をめぐる争いは、「工事代金の総額」ではなく、その内訳のうち、どこまでが法的に賃借人負担として認められるかという問題なのです。

ここで実務上とても重要なのは、証拠の時間軸です。入居時の状況が分からなければ、退去時の損傷が賃借人の負担すべきものかどうかを判断しにくくなりますし、退去時の立会記録や写真が乏しければ、賃貸人側の控除主張も弱くなります。国土交通省も、トラブル防止の観点から、入居時・退去時に物件の状況を確認し、契約条件を当事者双方がよく確認しておくことの有効性を示しています。結局のところ、敷金返還請求は、法律論だけでなく、入居時の現況確認、退去時の立会い、写真、チェックリスト、修繕見積書、精算書といった証拠の質でかなり勝負が決まります。

また、契約書の扱いも軽視できません。国土交通省の案内でも、既存の契約書が有効であることを前提に、契約内容に沿った取扱いが原則だとされています。もっとも、契約条項が曖昧であったり、一方的に過重な負担を定めていたりする場合には、その解釈や有効性が別途問題になります。したがって、実務では、「原状回復特約があるから賃借人が全て負担する」と短絡するのではなく、その特約が何を対象とし、どこまで具体的に合意されているのかを丁寧に読む必要があります。原状回復やクリーニング費用の特約があっても、それだけで一切の争いが封じられるわけではありません。

さらに、賃借人側が見落としやすいのが、未払賃料以外の控除です。敷金は、賃料だけでなく、賃貸借に基づいて生じる賃借人の金銭債務を担保するものとして定義されていますから、損害賠償金や原状回復費用等も控除対象になり得ます。他方で、賃貸人側が控除できるのは、あくまで賃貸借に基づく、法的に認められる未払債務に限られます。請求根拠が曖昧な雑費、実際には必要性が乏しい工事費、通常損耗分まで含めた全面改装費用などを漫然と差し引くことは、そのまま認められるとは限りません。敷金返還請求では、賃借人側は「何が差し引かれたのか」を分解して争い、賃貸人側は「なぜそれが控除できる債務なのか」を個別に立証する必要があります。

結局のところ、敷金返還請求は、単純な預り金返還事件ではありません。賃借人側からみれば、賃貸借終了と明渡し完了を押さえたうえで、控除主張の中身を一つずつ崩していく事件ですし、賃貸人側からみれば、未払賃料や原状回復費用等の控除根拠を具体的に積み上げる事件です。そこでは、民法621条と622条の2の条文構造を踏まえ、通常損耗・経年変化と賃借人負担部分を混同しないことが決定的に重要になります。敷金返還の紛争は日常的ですが、要件事実的にみれば、明渡し、原状回復、控除の可否が順番に噛み合う、非常に実務的な類型だといえるでしょう。

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