第25講 預貯金は遺産分割前に払戻しできるのか|生活費が必要なときの対応
第25講
預貯金は遺産分割前に払戻しできるのか|生活費が必要なときの対応

相続が始まると、現実にはまずお金が要ります。葬儀費用、当面の生活費、施設費や医療費の精算、相続債務の弁済など、遺産分割の結論を待っていられない支出は少なくありません。ところが、預貯金については、最高裁平成28年12月19日大法廷決定により、共同相続された預貯金債権は遺産分割の対象であり、相続人が当然に単独で払い戻せるものではないという整理が明確になりました。そのため、遺産分割前の資金需要に対応するため、2019年施行の改正で預貯金の払戻し制度が設けられました。法務省も、今回の改正で、遺産分割前に預貯金の払戻しを認める制度として、①家庭裁判所の判断を経ない方法と、②家庭裁判所の判断を経る方法の二つを設けたと説明しています。
まず、もっとも使いやすいのが、家庭裁判所を通さず、金融機関に直接請求する方法です。法務省の改正説明によれば、各共同相続人は、遺産分割前でも、相続開始時の預貯金債権額に3分の1を掛け、さらに当該相続人の法定相続分を掛けた額について、単独で払戻しを受けることができます。ただし、1つの金融機関から払戻しを受けられるのは150万円までです。法務省の広報資料でも、同じ計算式と150万円上限が示されています。
たとえば、ある銀行に相続開始時点で900万円の預金があり、相続人が子2人だけなら、各自の法定相続分は2分の1ですから、1人が単独で請求できる額は、900万円×3分の1×2分の1で150万円になります。他方、同じ計算式で200万円になる場合でも、1金融機関あたりの上限は150万円なので、そこで頭打ちになります。したがって、この制度は「相続分どおりに自由に全部下ろせる制度」ではなく、あくまで当面の資金需要に対応するための限定的な仮払制度です。
これに対し、150万円では足りない、あるいは事案が複雑で金融機関直接ルートでは対応しにくい場合には、家庭裁判所の判断を経る方法が問題になります。法務省は、改正で設けられた第二の方法として、家庭裁判所の判断を経て預貯金の仮払いを受ける方策を説明しており、その趣旨を、生活費や葬儀費用の支払、相続債務の弁済などの資金需要への対応にあるとしています。さらに、2016年大法廷決定の補足意見でも、遺産分割前に払戻しが必要で共同相続人全員の同意が得られない場合には、遺産分割事件を本案とする保全処分として、相続財産中の特定の預貯金債権を特定の共同相続人に仮に取得させる仮処分の活用が考えられるとされていました。
この家庭裁判所ルートは、家事事件手続法上、遺産分割の調停又は審判の申立てがあることを前提に、預貯金債権を行使する必要があり、かつ他の共同相続人の利益を害しないことなどを見ながら判断される制度として理解されています。法務省の改正説明も、家庭裁判所の判断を経る方法を、直接払戻しとは別枠で用意したと整理しています。実務感覚でいえば、急ぎでまとまった額が必要だが、他の相続人との合意が取れない場面で検討する制度です。
ここで注意したいのは、この制度は勝手にATMで下ろしてよいという話ではないということです。遺産分割前の預貯金については、正規の仮払制度を使うか、相続人全員の合意に基づいて処理するのが基本です。大阪家庭裁判所のQ&Aでも、相続人の一人が被相続人死亡後に無断で引き出した預貯金は、原則として遺産分割調停の遺産の対象とはならず、全相続人の合意がある場合に限って調停・審判で扱えると説明されています。つまり、制度に従わない無断払戻しは、後で「とりあえず遺産分割の中で整理すればよい」とは限らず、別の紛争を生みやすいのです。
また、金融機関から直接払い戻しを受けた額は、後の遺産分割と無関係になるわけではありません。法務省の要綱案説明では、この制度により払戻しを受けた預貯金債権については、その共同相続人が遺産の一部の分割により取得したものとみなす整理が示されています。要するに、先に受け取った分は、最終的な遺産分割の場面でも「既に取得したもの」として扱われる方向になるということです。したがって、この制度は「先に抜け駆けして多く取る」ためのものではなく、あくまで緊急の資金需要に対応しつつ、後で全体の公平を図るための仕組みです。
結局のところ、遺産分割前の預貯金は、今の法制度では完全に動かせないわけではありません。2019年改正後は、①金融機関に直接請求する限定的な仮払制度と、②家庭裁判所を通じた仮分割・仮払いの制度の二本立てで対応できるようになっています。ただし、どちらも「生活費や葬儀費用などの切迫した必要」に応えるための制度であり、無制限に自由な引出しを認めるものではありません。相続開始直後に資金が必要になったときは、まず「正規の制度で動かせるか」を考えることが大切です。
第26講では、ここから一歩進めて、使い込まれた預金はどうするか|生前引出し・死後引出しの問題を扱います。相続実務では、「払戻し制度を使った適法な引出し」と「無断の引出し・使込み」をきちんと分けて考える必要があります。