第14回 退職後に会社から請求されたら|誓約書違反・損害賠償・競業避止の問題
第14回 退職後に会社から請求されたら|誓約書違反・損害賠償・競業避止の問題

会社を辞めた後になって、「誓約書に違反した」「競業避止義務に反した」「会社に損害を与えたから賠償しろ」などと請求されることがあります。もっとも、退職時に誓約書へ署名していたからといって、そこに書かれた内容がすべてそのまま有効になるわけではありません。退職後の紛争では、①あらかじめ決めた違約金なのか、②実際の損害賠償請求なのか、③秘密保持・営業秘密の問題なのか、④競業避止条項の問題なのかを切り分けて考える必要があります。ここを混同すると、会社の請求が強そうに見えても、実は法的にかなり不安定なことがあります。
1 まず、「退職後の請求」は一種類ではない
退職後に会社がしてくる請求には、いくつか典型があります。たとえば、「1年以内に辞めたら10万円払う」「顧客を1件失えば〇万円払う」といったあらかじめ定めたペナルティ、在職中や退職時の行為で会社に現実に損害が出たとしてする損害賠償請求、顧客情報や技術情報を持ち出したとして問題にする秘密保持・営業秘密の請求、同業他社への転職や独立を問題にする競業避止の請求です。法的な土台がそれぞれ違うため、まとめて「誓約書違反」と扱わないことが大切です。
2 「辞めたら違約金」は、そのまま有効とは限らない
労働基準法16条は、労働契約の不履行について違約金を定めたり、損害賠償額を予定したりすることを禁止しています。厚生労働省の教材でも、「1年未満で退職したら罰金10万円」「備品を壊したら1万円」などとあらかじめ決めておいても、それに従う必要はないと説明されています。つまり、退職時誓約書や雇用契約書に「〇年以内に辞めたら〇円支払う」と書いてあっても、それだけで直ちに支払義務が確定するわけではありません。
もっとも、これは「会社が一切損害賠償請求できない」という意味ではありません。厚生労働省の同じ資料でも、労働者が故意・過失によって実際に会社へ損害を与えた場合の損害賠償義務まで消えるわけではないとされています。つまり、定額のペナルティはだめだが、現実の損害についての個別請求は別問題です。ここを会社側がわざと曖昧にしてくることがあります。
3 実際の損害賠償請求も、会社が当然に勝つわけではない
会社から「お前のミスで損害が出た」「顧客が離れた」「案件が飛んだ」と言われると、労働者側は全面的に責任を負うように感じがちです。しかし、厚生労働省の裁判例整理では、労働者が仕事上のミスで使用者に損害を与えた場合でも、労働者が当然に損害賠償責任を負うものではないと明示されています。労働者のミスは、企業運営に内在するリスクでもあり、使用者が負うべき面があるからです。
そのうえで、会社が請求できるとしても、事業の性質や規模、施設の状況、労働者の業務内容や労働条件、勤務態度、行為の態様、予防策や損害分散についての会社側の配慮などを踏まえ、損害の公平な分担という見地から信義則上相当な限度にとどまると整理されています。つまり、退職後に高額の賠償請求書が届いたとしても、その金額がそのまま法的に通るとは限りません。
4 秘密保持義務の問題は、かなり重くなり得る
一方で、顧客名簿、技術資料、営業資料、見積情報、価格戦略、設計データなどを退職時に持ち出している場合は、かなり深刻です。厚生労働省の裁判例整理では、競業他社への転職が内定した後に機密資料を持ち出した事案で、懲戒解雇が権利濫用に当たらないとされた例が紹介されています。退職前後の資料持出しは、「自分の仕事の控え」程度の意識でも、法的には重く評価されることがあります。
さらに、不正競争防止法上の「営業秘密」は、秘密として管理されており、事業活動に有用で、公然と知られていない情報をいいます。経済産業省も、秘密情報を日頃から営業秘密として管理しておくことで、漏えい時に差止請求や損害賠償などの民事措置、場合によっては刑事措置による救済を受け得ると説明しています。したがって、会社側が本当に営業秘密として管理していた情報を持ち出して使った場合は、単なる「退職後トラブル」では済まないことがあります。
5 ただし、「会社の情報」なら何でも営業秘密になるわけではない
会社側が「全部秘密だ」と言っても、それだけで不正競争防止法上の営業秘密になるわけではありません。経済産業省の営業秘密管理指針は、秘密管理措置の具体例として、「マル秘」表示、施錠保管、アクセス制限などを示しており、裁判例の紹介でも、就業規則で顧客情報の開示等を禁止していたことや、退職従業員に漏えいしない旨を誓約させていたことなどが、秘密管理性を肯定する事情として挙げられています。逆にいえば、会社側で秘密管理がかなりずさんだった場合には、「本当に営業秘密といえるのか」が争点になります。
6 守秘義務違反とされても、常に会社が勝つわけではない
守秘義務の問題でも、文脈は重要です。厚生労働省の裁判例整理では、労働者が人事情報や顧客情報等を、職場内でのいじめや差別の相談のために守秘義務を負う弁護士へ無許可で開示した事案で、裁判所は、機密性自体は認めながらも、自己救済目的で不当ではないとして秘密保持義務違反を否定し、懲戒解雇を無効としました。つまり、会社情報の外部提供が常に違法なのではなく、相手方や目的、必要性がかなり重要です。
7 競業避止義務は「書いてあれば有効」ではない
退職後に同業他社へ転職したり、独立したりしたことを理由に、会社が「競業避止義務違反だ」と主張することがあります。この点について、厚生労働省の裁判例整理は、競業の制限が合理的範囲を超えて職業選択の自由を不当に拘束する場合には、公序良俗に反して無効になるとしています。そして、合理的範囲かどうかは、制限期間、地域、職種の範囲、代償の有無などを、企業の利益と退職者の不利益から判断すると整理しています。
厚生労働省関係の雇用労働相談センターの解説でも、退職後の競業避止義務については、守るべき企業利益の有無、労働者の地位・職種、制限の期間・地域・職種、代償の有無を総合考慮するとされています。したがって、「退職後3年間、日本全国、同業一切禁止」などの広すぎる条項は、かなり不安定です。他方で、会社の中枢情報に直接関与していた従業員について、限定された範囲で、代償措置もあり、短期間の競業避止を求めるような場合には、有効と判断される余地があります。
8 退職金や誓約書の扱いも、条項の中身次第
厚生労働省の裁判例整理では、競業活動を一定期間制限したとしても直ちに職業選択の自由の不当拘束になるわけではなく、同業他社へ就職した場合に退職金を半額とする退職金規程について、退職金の功労報償的性格も踏まえて合理性がないとはいえないとした事例も紹介されています。つまり、退職後条項は全部無効とも言えません。結局は、何を、どこまで、どれだけの期間、どんな代償のもとで制限しているかが勝負になります。
9 会社から請求されたとき、まずやるべきこと
この場面で大切なのは、怖くなってすぐ支払ったり、不利な確認書へ署名したりしないことです。まず、会社が何を根拠に請求しているのかを切り分ける必要があります。
誓約書、雇用契約書、就業規則、秘密保持契約、退職時誓約書、請求書面、持ち出したとされる資料の内容、会社の秘密管理状況が分かる資料などを集め、①違約金条項なのか、②実損請求なのか、③営業秘密なのか、④競業避止なのかを整理するのが出発点です。これは、上で見たように、それぞれ適用される法理が全く違うからです。
また、相手の請求が強いときほど、「どの情報が秘密で、どう管理され、何がどう漏えいし、どんな損害が出たのか」を具体的に見るべきです。固定額のペナルティなら労基法16条が問題になり、実損なら会社側の立証が必要で、競業避止なら合理的範囲が問われ、営業秘密なら秘密管理性が問われます。請求の名前に圧倒されず、構造で分解することが重要です。
まとめ
退職後に会社から請求されたからといって、直ちに支払義務が確定するわけではありません。
「辞めたら違約金」は労働基準法16条の問題になりやすく、仕事上のミスによる損害賠償も当然に全額負うわけではありません。他方で、顧客情報や技術情報の持出し、営業秘密の使用、合理的範囲内の競業避止義務違反は、会社側の請求が通り得る場面です。誓約書があるかないかだけで決まるのではなく、条項の中身、会社の管理状況、実際の行為、範囲の合理性で見ていく必要があります。