第4講 生前贈与・特別受益・名義預金|“すでに渡した財産”はどう扱われるのか

第4講 生前贈与・特別受益・名義預金|“すでに渡した財産”はどう扱われるのか

富裕層の相続で特に争点になりやすいのは、相続開始時に残っている財産そのものだけではありません。むしろ問題が深くなりやすいのは、「生前にすでに渡したはずの財産」をどう扱うかです。親としては援助のつもりでも、他の相続人から見れば「それは前渡しではないか」という話になりますし、逆に受け取った側は「もう自分の財産だ」と考えます。相続実務では、この食い違いが遺産分割、遺留分、税務申告のそれぞれで別のかたちで表面化します。

まず出発点として確認すべきなのは、「贈与した」と口で言っていただけでは、後で争いを残しやすいということです。民法549条は、贈与を「当事者の一方がある財産を無償で与える意思を表示し、相手方が受諾をすることによって、その効力を生ずる」と定めていますが、同550条は、書面によらない贈与は各当事者が撤回できるとし、ただし履行の終わった部分は別だとしています。つまり、「もうあげたはずだ」という感覚だけで済む話ではなく、何を、いつ、どのような趣旨で、どこまで実際に移したのかが後で重要になります。

1 特別受益になるのは、どんな贈与か

相続人の一人に対する生前贈与が直ちに全部「前渡し」扱いになるわけではありません。民法903条1項が問題にしているのは、共同相続人の中に、遺贈を受けた者、又は「婚姻若しくは養子縁組のため若しくは生計の資本として」贈与を受けた者がある場合です。この場合、その贈与価額を相続開始時の財産に加えたみなし総額を基礎に各人の相続分を計算し、その者については贈与分を控除する仕組みが採られています。したがって、実務ではまず、「その援助が民法903条のいう特別受益に当たる性質のものか」を見極めるところから始まります。

この点は、富裕層の相続ほど重くなります。なぜなら、住宅取得資金、事業の元手、まとまった投資資金、家族会社への資金移動など、「生計の資本」と評価され得る資金移転が増えやすいからです。反対にいえば、相続の現場で本当に争われるのは、単に「送金があったか」ではなく、その送金が生活費の範囲だったのか、それとも相続分の前渡しに近い性質だったのか、という点です。この整理をせずに「もう渡した」「いや、ただの援助だ」と応酬しても、議論は噛み合いません。これは民法903条の文言から自然に導かれる実務上の整理です。

2 特別受益は、遺産分割の計算を変える

特別受益が認められると、結論はかなり変わります。民法903条1項は、被相続人が相続開始時に有していた財産に贈与価額を加えたものを基礎として相続分を算定する構造を採っています。さらに民法904条は、その贈与財産の価額は、贈与後に価格の増減があっても、相続開始時になお原状のままであるものとみなして定めるとしています。つまり、過去の贈与は「もう終わった話」ではなく、遺産分割の計算上、現在に引き戻されることがあるのです。

この仕組みの意味は、富裕層の相続で特に大きいものがあります。相続開始時の残高だけを見れば平等に見えても、特定の相続人に大きな資金移転がされていれば、残った財産だけを頭割りするのはかえって不公平になるからです。逆に、特別受益に当たるかどうかの整理が曖昧なまま協議を進めると、後で「既に多額の利益を受けていたではないか」という不満が噴き出しやすくなります。富裕層の相続では、現在の資産目録と同じくらい、生前の資金移動の履歴が重要になります。

3 持戻し免除が問題になる場面

もっとも、被相続人が「その贈与は相続分の前渡しとして扱わなくてよい」と考えていた場合まで、一律に持戻し計算をするわけではありません。民法903条3項は、被相続人が持戻し免除の意思表示をしたときは、その意思に従う建付けを採っています。したがって、贈与の経緯、贈与契約書、遺言、家族への説明内容などから、単なる援助ではなく、持戻しをさせない趣旨が読み取れるかどうかが実務上の争点になります。

また、民法903条4項は、婚姻期間20年以上の夫婦の一方が、他方に対して居住用建物又はその敷地を遺贈又は贈与したときは、持戻し免除の意思表示があったものと推定すると定めています。法務省も、この規律は、長年連れ添った配偶者への居住用不動産の贈与等は、老後の生活保障や従前の貢献への配慮という趣旨で行われることが多く、被相続人の通常意思にも合致すると説明しています。つまり、同じ「生前贈与」でも、誰に、何を、どのような関係で渡したのかによって結論は変わります。

4 名義預金は「名義」で決まらない

富裕層の相続で頻出するのが、いわゆる名義預金です。通帳や口座名義が子や配偶者になっていても、国税庁は、名義にかかわらず、被相続人が取得等のための資金を拠出していたことなどから被相続人の財産と認められるものは、相続税の課税対象になると明示しています。国税庁のチェックシートでも、「名義は異なるが、被相続人に帰属するもの」がないかを確認項目として挙げています。少なくとも税務の世界では、「誰の名義か」だけでは終わらず、「実質的に誰の財産だったか」が問われます。

このため、実務では、口座名義だけで安心してはいけません。原資を誰が出したのか、通帳・印鑑・キャッシュカードを誰が管理していたのか、受贈者本人が自由に処分できたのか、贈与税申告はされていたのか、といった事情の積み重ねで帰属が見られます。国税不服審判所の裁決を紹介する国税庁関係資料でも、原資が被相続人の資金で、通帳や印鑑の管理が相続開始時まで被相続人の下にあり、子らが自由に処分できなかった事案では、贈与があったとはいえず、被相続人の財産として扱われた例が示されています。

5 民法上の特別受益と、税務上の加算は別問題である

ここで注意すべきなのは、民法上の特別受益と、相続税法上の加算は同じではないということです。税務では、相続や遺贈で財産を取得した者が、被相続人から暦年課税による贈与を受けていた場合、その一定期間内の贈与が相続税の課税価格に加算されます。国税庁によれば、令和6年1月1日以後の暦年課税贈与からは加算対象期間が3年から7年へ拡大する改正が入りましたが、相続開始日によってはなお経過措置があり、令和8年12月31日以前の相続開始では3年以内が対象です。つまり、遺産分割での「持戻し」と、税務申告での「加算」は、似て見えて別のルールです。

さらに、相続時精算課税を選択した贈与は、贈与時に一定の控除や課税関係がある一方で、贈与者が亡くなった時に、それまでの相続時精算課税適用財産の価額と相続や遺贈で取得した財産の価額とを合計して相続税額を計算する仕組みです。したがって、「生前に渡してあるから相続では終わっている」と短絡すると危険です。富裕層の相続では、民法の整理と税務の整理を別々に確認しないと、協議でも申告でも齟齬が生じます。

6 実務では、何を見ておくべきか

この論点で後から揉めないために重要なのは、結局のところ記録です。贈与契約書、送金記録、贈与税申告書、通帳の管理状況、印鑑の保管状況、不動産の登記、家族間で共有された説明内容などが、後の評価を大きく左右します。民法549条・550条が示すように、贈与は意思表示で成立し得る一方、書面のない贈与は争いを残しやすいのですから、富裕層ほど「渡した」という事実と趣旨を記録に落としておくべきです。

相続開始後の側から見ると、まず整理すべきなのは三つです。第一に、その財産が本当に贈与済みなのか、それとも被相続人に帰属する名義預金等なのか。第二に、仮に贈与済みだとして、民法903条の特別受益に当たるのか。第三に、税務上は相続税の課税価格への加算対象になるのか、相続時精算課税の対象なのか。富裕層の相続では、この三つを混同しないことが肝心です。

7 まとめ

“すでに渡した財産”は、相続の場面でそのまま忘れられるとは限りません。共同相続人に対する生前贈与は、民法903条の特別受益として遺産分割に影響することがあり、持戻し免除の有無や、長期婚姻配偶者への居住用不動産贈与の特則も問題になります。また、税務上は、名義預金のように名義だけでは切れない財産があり、さらに生前贈与も相続税の加算対象となる場合があります。富裕層の相続で本当に重要なのは、「もう渡した」という感覚ではなく、その財産の帰属、贈与の法的性質、相続上・税務上の扱いを分けて整理することです。

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